頑張らないように頑張る。

努力と怠惰の狭間

創作落語「NFT」


A「お前さん、NFTって知ってるかい」
B「NFT?なんだい、それは」
A「ネット上のトークンらしいんだが、俺もよく分かってないんだ」
B「トークン?よく分からないが、なんだか新しいもんができたんだねぇ」
A「そうなんだよ」
B「で、そのNFTってので何ができるんだい?」
A「メタバース上で土地の売買ができるんだよ」
B「土地の売買?」
A「あと、デジタル絵画の売買もできるんだ」
B「デジタル絵画?」
A「そうさ」
B「それってさ、実体はあるのかい?」
A「実体なんかないさ。全てはネット上にデータとして存在してるんだ」
B「実体の無い土地や、実体の無い絵画を売買するのか?」
A「そうさ」
B「なんだか怪しいね」
A「怪しくなんかないさ。大企業でも使われている技術だし、投資家たちも注目しているんだ」
B「そうなのか」
A「そこでさ、俺もデジタル絵画ってのを描いてみたんだよ。1万円なんだけど、買ってみないか?」
B「でも実体はないんだろ?どう扱えばいいのさ」
A「そんなの知らないよ。けど、俺の絵が将来的に10倍の価値が出たら、その時にデータを売ればいいさ」
B「1万円のデータが10万円になる可能性があるんだな」
A「そういう事さ」
B「よし。昔からのよしみで、1個買いだ!」
A「まいどあり!」

B「・・・という事があったのさ」
C「なるほど」
B「結局、AがくれたデータにNFTは仕込まれてなかったから、何の価値も出なかったんだ」
C「それは大変だったな」
B「けど、Aの発言には真正性や信頼性がないという裏付けされて、AのIDに詐欺の烙印が押されたらしい」
C「かわいそうに」
B「今ではどこに行ってもIDの提示をしないといけないから、過去の過ちをNFTが証明してしまって大変らしい」



🔗ただの思いつきで台本化してみた

先日、NFTが組み込まれたデジタル絵画を販売してる人の話を聞く機会があって、

「どういうモノなのかよく分かってないけど、今買っておけば将来的に価値になる可能性があります。」 という趣旨の発言をしてたので、

「この人の発言の信憑性をNFTが証明する時代が来たら面白いな」 と思って、思いつきで書いてみた。



僕もNFTやブロックチェーンを理解しきれていないまま勢いで台本化してしまい、変なところはあると思うので、ご容赦ください。


それにしても、どういうものなのか分からないまま売りつけるって、あまり良くないよね。
(世の中はそういうビジネスで溢れているし、買い手もよく分からず買っちゃうのが世の常だけど)



🔗NFTと周辺技術


NFT

「Non-Fungible Token」の略称。
日本語では「非代替性トークン」という。


FT

反対に「代替性トークン(FT/Fungible-Token)」というものもある。
「暗号資産」がその一つ。


NFTとFTの例

例えば、

  • 暗号資産は、1000円なら1000円の価値しかないし、1000円で1000円のモノが買える。(代替可能)
  • 電子絵画は、今は1000円でも将来的に1000円以上の価値になる可能性もあるし、絵画で他のモノは買えない。(代替不可)


ブロックチェーン

技術の根幹は「ブロックチェーン」にある。
ブロックチェーンは簡単にいうと「取引台帳の数珠繋ぎ」であり「分散型台帳」ともいう。


例えば、

  • 暗号資産で、「1000円」という資産を、誰から受け取り、誰に振り込んだという情報が、台帳に書込まれる
  • 電子絵画で、「XXXX」という作品を、誰が生み出し、誰の手に渡り、誰が現在持っているのかという情報が、台帳に書込まれる


この台帳は、

  • 一つのコンピュータが中央集権的に管理しているわけではなく、
  • 複数のコンピュータが分散的に管理している。


なので、

  • コンピュータABCDEの5台が分散管理していると仮定し、
    • コンピュータBの取引履歴が、コンピュータACDEに連携されるので、耐障害性に優れている
    • コンピュータCで改竄されても、コンピュータABDEとの照合結果が合わないので、耐改竄性に優れている


つまり、

  • 保有している暗号資産「1000円」を「100000円」というデータに改竄しても、その改竄履歴が残るし、保有している暗号資産「1000円」を他人が盗み出しても、取引履歴に存在しない人間は扱えない。
  • どの人が電子絵画を誰が描いたのかが分かるし、その人の価値が上がれば、その人が生み出した電子絵画の価値も上がる。



ざっくり書くと、こんな感じかな・・・・・。 (実は僕も細かいところまでは分かっていない。ブロックチェーンむずかしい・・・・・。)



🔗NFTで考える、デジタル倫理について

技術はどんどん発達や進化をしていて、人々が思い浮かんだ事は大体実現できるようになる。



落語にも記載したように、会話という音声データをテキストに変換し、マイナンバーカードなどの個人に紐付くマスタデータに紐付ける事もできる。


2011年からイギリスで放送されているテレビドラマ『ブラックミラー』(Netflixで視聴可能)
本ドラマの「人生の軌跡のすべて」では、自分の記憶をすべて録画再生する事ができる。
本人は全てにアクセスできるが、空港などの機関では記憶の提出を求められる事もある。



果たして、技術的に可能だからといって実現してよいのだろうか。
実現した事による社会的影響は、好天となるか悪天となるか、どちらだろうか。



NFTは技術的には素晴らしいが、それを投資商材・投機商材として使うのはどうなのだろうか。
NFT詐欺に引っかかる事で、NFTは悪くないのに、NFT自体にスティグマ(負のレッテル)が押される事にはならないだろうか。



便利だからといって何でもかんでも使っていいわけではない。
正しく理解し、正しく使用する事が、技術を技術たらしめる事に繋がると、僕は思う。

「武士道」を読んだけどまとめてなかったのでまとめた。

数年前に読んだ「武士道」のメモがGoogleKeepにあったので、まとめ直して投稿しておく。

なお、本書はPHP文書から出版されている。(武士道は様々な出版社から出ているが、僕は古本屋でこれを手に取った。)

www.php.co.jp



⚔武士道とはなにか

  • 武士道は、ノーブレスオブリージュであり、道徳的原理である。成文法ではない。
  • 武士道は、誰か一人が創造したものでなく、長きに渡って自発的に醸成・発達したもの
  • 武士道は、武家諸法度からではなく、封建制の確立が始まり
  • 武士道は、「小さな子をけっしていじめず、大きな子から逃げなかった者」である(byトム・ブラウン)
  • 「翻訳荒いけど許してね」by新渡戸



⚔武士道の源

  • 仏教と神道から来ている
    • 仏教からは、心の平静さ、生に執着せず、死と親しむ(禅の教えによるもの。方法として座禅と瞑想)
    • 神道からは、忠誠心、尊敬、孝心(「汝自身を知れ」)
  • 孔子孟子からも来ている(思想は知ってるが実践できない者は冷笑された(論語読みの論語知らず、書物の虫))
    • 孔子からは、貴族的で保守的な教訓(ex:五倫)
    • 孟子からは、強烈で民主的な理論
  • 武士道が目指すは「知行合一



⚔義

  • 正直で、率直で、男らしい徳目
  • 死すべきときには死に、討つべきときには討てる、自分の身の処し方をためらわずに決断できる力
  • 孟子「仁は人の良心(=愛)なり、義は人の道(=規範)なり」
  • エスもまた、義の道を説いた一人
  • 義理とは、
    • 正義の道理
    • 元々は義務の意味合い
    • 但しこれは人間が作り出した産物であり、恣意的な習慣により屈服させられるような社会的条件下にあるがために曖昧になり堕落した、詭弁のために用いられ非難を逃れるための臆病にまで堕ちた



⚔勇

  • 生きるべきときに生き、死ぬべきときに死ぬ
  • 孔子「義を見てせざるは勇なきなり」
  • ニーチェ「汝の敵を誇りとすべし、しからば敵の成功はまた汝の成功なり」
  • 勇気、度胸、忍耐。これらを身につける事で平静、冷静、余裕に繋がる(心の広さ)
  • 勇気あるものはスポーツの要素すら見られる(普通の人には深刻でも、遊びのようであったりする)



⚔仁

  • 王者の徳であり、女性的な優しさと説得力を持つ徳
    • 最も気高い徳であり、偉大なる王者にこそふさわしい徳
    • 相対するのが義
      • 伊達政宗「義に過ぎれば固くなる。仁に過ぎれば弱くなる。」
  • 愛、寛容、他者への情愛、慈悲
  • 弱きを慈しみ、傲れるを挫く
  • 仁がなければ人ではない(孔子孟子も語る)
  • 孟子「惻隠の心は仁の端なり」←孟子らしい!!!
  • 詩や音楽は苦悩を和らげるためにあり、また、他者の気持ちや苦しみを慮り尊重する事にも繋がる



⚔礼

  • 他を思いやる心が外へ表れたもの(品性の良さのために行われるものではない)
  • 最高形態は愛に近しい
  • 音と音楽が同一ではないように、上部だけの作法が礼儀ではない
  • 優美とは、無駄のない動きであり、作法であり、礼儀に通ずる
  • 泣く人と共に泣き、喜ぶ人と共に喜ぶのも、"ひどくおかしな"礼である(真実を語ることと礼儀正しくあることのどちらがより重要か・・・日米で正反対の答えになるだろう)



⚔誠

  • もっとも若い徳
  • 伊達政宗菅原道真も説いている
  • 孔子は「中庸」において誠を尊んだ
  • 嘘をつかず二言もない、あったら罪をも受ける覚悟。正直であること。
  • 礼を欠くより、嘘をつく方が重い
    • 礼を欠かないためにつく嘘は、虚礼であり、甘言による欺瞞
    • ただし、正直を守るための嘘はつくのは然るべき(正直は最善策であるため)
  • 誠がもたらす3要因・・・産業、政治、哲学
  • 富を権力者に集中させないため、貴族から商業を遠ざけた
  • 富の道は名誉の道ではない



⚔名誉

  • 人格の尊厳と明白なる価値の自覚
  • 幼児期から教え込まれる武士の特質
  • 不名誉や恥、羞恥心は事の始まり(新井白石、カーライル、蒙子)
  • 武士は病的なまでに名誉に敏感
    • 侮辱には死を以て報復
      • 食い止める役割を果たすのが我慢、忍耐、寛容
  • 名誉は境遇から生まれるものではなく、個人個人が役割を全うすること
  • 目標は知識や富ではなく名誉(ただの見栄や評判であっても最高の善であると尊ばれていたため



⚔忠義

  • 主君に対する服従や忠誠
  • 孝=子から親に対する敬い
  • 武士道は個人よりも公を重んじる。愛する者のために死ぬとしてもそれが何だというのか、キリストも同じように言っているではないか。
  • ソクラテス「国家や法律『お前はわが下に生まれ、養われ、かつ教育も受けたのに、お前もお前の祖先も、私の子供でも従者でもないと、あえて言うのか』」
  • 新約聖書カエサルのものはカエサルへ」
  • 佞臣と寵臣は軽蔑された(君主と臣下の意見が分かれる時、臣下の取るべき忠義は君主の過ちを正すこと。奴隷になってはならない。)



⚔武士道はどのように教育されたか

  • 品格の形成が第一に考えられ、思慮や知識などは重要視されなかった
  • 武士道を支える3つの柱「智」「仁」「勇」
  • 文学・・・娯楽
  • 哲学・・・軍事問題や政治問題のため
  • 書・・・・・絵画的であり芸術的
  • 柔術・・・攻防のための解剖学的知識
  • 数学・・・軍事教育には必要だが教育からは外されていた(封建時代の戦闘は科学的な正確さを持っていなかったため、損得勘定や金銭を嫌うため)
  • 「父母は天地のごとく、師君は日月のごとし」との格言の通り、教育者は優れた人格を持つ



⚔克己

  • 克己の理想は、常に平静を保つこと
    • 「喜怒を色に表さず」
    • 「沈黙は金、雄弁は銀」
    • 「口開けて 腸見する 石榴かな」
  • 日本人にとって笑いとは、悲しみや怒りとのバランスを取る役割
  • 感情の抑制を半ば強制されるため、安全弁として詩歌に綴った
  • 克己は、頑固さや偽善者を生んだり、愛情を鈍らせたりする事もあるが、「平静を保つ」という理想の追求の結果である(悲しい・・・)



⚔「切腹」と敵討ち

  • 義の実践、誠の証明
  • 切腹
    • 気高い行為であり、感動的な悲しみの孕む儀式を連想させ、不合理でも野蛮でもない
    • 魂は腹に宿る
      • ギリシャ人も同様の思考、生理学用語ともリンク(vantre、entraille)
    • 日本人特有でなく、海外でも例は見られる
    • 「俺の腹を見れば、潔白か汚れてるか分かるだろ。ならばお前の目でしっかり見なさい」という意味での切腹
      • 名誉の証明であり、不名誉の隠蔽にもなる
    • いたずらに死に急いだり憧れるのは卑怯と見なされた
      • 真の名誉は、天から命じられた事をやり遂げる事
      • それを遂行するために招いた死は不名誉ではないが、逃れるための死は卑怯
  • 敵討ち
    • オシリスの「この世で一番美しいものは何か」という問いに対し、ホルスは「親の仇を取ること」と答えた
    • 刑事裁判のない時代の殺人は罪ではなかった
      • 被害者家族による復讐だけが社会秩序を維持した
    • 老子は「怨みに報いるには徳を以てす」と説き、孔子は「正義を以て怨みに報いるべし」と説く
      • 孔子が支持された
      • ただし、忠義ある主君に対してのみであり、身内に対しては耐えねばならなかった
    • 現代社会においては、規律正しい警察が被害者のために犯人を探し、法律が正義をもって裁いてくれる



⚔刀

  • 魂と武勇、忠義と名誉の象徴
  • 幼い頃から振り方を習い、5歳になると武門入りの儀式を行い、15歳になると元服(成人)し一人立ちする
  • 刀に対する無礼は、持ち主に対する侮辱と同じ
  • 工芸家の関心や技巧、本人の虚栄心を揺さぶり、太平の世は芸術的になってきた
  • 必要もないのに刀を振り回すのは卑怯や臆病のレッテルを貼られた
    • 勝海舟は一度も人を斬り殺した事がない。武士道の究極的な理想は平和。



武家の女に求められた理想

  • 求める理想像の、半分はアマゾネス的な勇猛果敢さ、半分は家庭的
    • 勇猛果敢さ:自分自身(貞操)と家庭(名誉)を護るため
    • 家庭的:婦は箒、妻(wife)は織り手、娘(daughter)は乳絞り。音楽や舞踊や読書は嗜みであり、社交の場で披露するのは務め
  • 女性は夫や息子に忠義し、夫や息子は主君に忠義し、主君は天の命に従う
  • 奴隷的ではなく内助の功であり、内側からの助け、すなわち武士が主君に忠義するのと同等
  • 身分的なものは武士階級のみ。農工商ではほぼ平等。法廷なんかもっと平等。
  • 身内を誉めるのは自分を誉めるに値し礼儀に反する、なので愚父や愚母と呼ぶ。



⚔武士道はいかにして「大和魂」になったか

  • 武士道の道徳体系は、徐々に民衆の間にも広がった(美徳は悪徳に劣らない伝染力を持っている)
  • 民衆に対して道徳律の規範を自らを以て示すことで民衆を導いた
  • 民衆の娯楽(教育・寄席・浄瑠璃など)にも武士が描かれ、理想や憧れの的となった
  • 民衆の中でも「男伊達」と呼ばれるリーダー的存在がいて、そこに対して忠義していた。これにより大和魂が根付いたといえよう!
  • 大和魂は桜花と似ている(自然に生える。日本固有。派手さを誇らない。ほんの一瞬香る。)



⚔武士道はなお生き続けるか

  • 武士道の特質は、ヨーロッパの例による比喩や説明で分かる通り「武士道のみ」ではない
  • 形式こそないものの、国民を鼓舞する原動力であり、維新回天の原動力である
  • 日本は西洋の文化を、西洋から教わったのではなく自ら学んだ
    • 影響を受けたからではなく、劣等国として見下されることに耐えられない名誉心から来る行動
  • 武士道の欠点は名誉心(感じやすく激しやすい性格や尊大な自負心)
  • 「忠義」や「名誉」に感化される(キリスト教などの異教徒に突き動かされないのは血がそうしてる)



⚔武士道が日本人に遺したもの

  • 封建制の終わりが武士道の終わり
  • 騎士道は封建制から離れたのちキリスト教に引き取られたが、武士道にはそのような宗教はなかったため自力で生きた
  • 時代の変化により、教育や産業などが発展し、刀や弓矢は意味をなさなくなった。武徳が築いた国家(都市国家や帝国など)でさえ永遠ではない。
  • 人は"臣下"という身分ではなく、誰もが平等である"市民"に成長した
  • 消えかかっているが、代わりが見つかってない。体系としては死んだが徳目としては残っている


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「笑いの哲学」を読んだけどまとめてなかったのでまとめた。

以前「笑いの哲学」という本を読み、GoogleKeepにメモ書きだけしていたのだが、ちゃんとまとめてなかったので、内容をまとめておく。

なお、本書は、講談社より出版されている。

bookclub.kodansha.co.jp



😃本書に記載されている3つの笑い

本書では以下の章立てで笑いを分析している。
また、ざっくりいうと、それぞれ以下のような笑いであるといえる。

  • 優越の笑い
    • 「出来合いの枠」にスポッと嵌ってしまう事による笑い
  • 不一致の笑い
    • 二つの観念を同時に考えて繋げる「機知」による笑い
  • ユーモアの笑い
    • 健全な精神であり、自分を見失わないための武器であり、問題に向き合う距離と勇気を与える笑い(説明が難しい...)


以下、それぞれについて見ていく。



😃優越の笑い

人は人から笑われたくないと思っている。
その根底には、「不恰好なもの」という『出来合いの枠』に嵌められる事が恥ずかしいという気持ちがあるから。
(例:駅の階段でコケる事自体は恥ずかしくないが、「間抜けな人」という『出来合いの枠』に嵌められて視線を感じるのが恥ずかしい。)


『出来合いの枠』には、「ポジティブな枠」も「ネガティブな枠」も存在する。
ネガティブな枠としては、性別・人種・宗教など、ポリコレに反するモノが該当する。


「ポリコレ」や「エスニックジョーク」について

ホッブズは、「笑う者は小心であり、ポリコレに反している。」と言う。
アンリ・ベルクソンは、「笑う者は枠に対して笑っているだけであり、優れている。」と言う。
(「枠を笑う」という時点でポリコレに反しているという側面もあるが、ここでは言及しない。)


クリスティー・デイヴィスは、「『エスニックジョーク』における愚かさの対象は、支配的な中心文化圏に隣接した周縁地域に属するものが担う」と言う。
例えば、アメリカにおけるポーランド人、フランスにおけるベルギー人、東京都民における埼玉県民など、支配的地域の周辺地域にのみ『エスニックジョーク』は通じる。
なので、無関係な地域に向けられることはない。


「笑いの空間」と「差別の空間」について

ノエル・キャロルは、「ジョークは『笑いの空間』で展開されたものであり、『差別の空間』で展開されたものではない。」と言う。
つまりジョークとは、「架空のジャンル」を引き合いに出して、そのネタを『出来合いの枠』として楽しんでいるだけである。
(例えば、"ブロンド女性"という「架空のジャンル」を『出来合いの枠』にしているだけで、特定の人物を虐げているわけではない。)


ロナルド・デ・ソーサは、「ステレオタイプを批判する事は、再批判を誘発する。」と言う。
『笑いの空間』を引き合いに出すが、その一方で、『差別の空間』を生み出されてしまうという見解を示す。
(例えば、"ブロンド女性"という架空のジャンルは、性差別主義的な『差別の空間』も同時に生み出す。)


「マイクロアグレッション」について

デラルト・ウイング・スーは、「マイクロアグレッション(ほんの些細な攻撃性。自覚なき差別。)」の名付け親。
加害者側の「攻撃の意図」の是非よりも、被害者側の「行為の解釈」に重点が置かれる。
つまり、加害者側の意図なき発言が、被害者側にはステレオタイプに基づく発言だと誤解されかねないし、加害者には弁明の余地はない。


「被害者意識」と「認知の歪み」について

ブラッドリー・キャンベルジェイソン・マニングは、「マイクロアグレッションの背景には、被害者意識の文化がある。」と言う。
道徳文化として「名誉の文化」「威厳の文化」があるが、近年は「被害者意識の文化」がある。
「名誉の文化」は侮辱される者に厳しいが、「被害者意識の文化」は侮辱される者に優しい側面がある。
被害と特権は対立関係にあるが、「被害者意識の文化」における被害者は"安全な空間という特権を確保する"という認知の歪みを抱えている。


灘本昌久は、「差別の痛みから解放される方法は、差別を内面化してしまっている自分を認知する事。」と言う。
つまり、差別から目を背ける安全な空間に居続ける限り、「差別は存在する」という価値観が拭えなくなってくる。
自己評価を上げるためには、以下のステップを踏むとよい。

  1. ネガティブな要素をそのまま書き出す
  2. それを認知の歪みとして捉える
  3. その代わりにより客観的な考えに置き換える


「笑えない状況」を「笑われる状況」、更に「笑わせる状況」へ

「笑えない状況(例:階段でコケて間抜けな状況)」というのは、一歩間違えれば恐怖へと転じる。
「笑えない状況」を「笑われる状況」にする事で、恐怖から脱する事ができる。
「笑われる状況」を「笑わせる状況」にするため、あえてイジられたり自虐に走って遊ばれる事もある。



ここで勘違いすべきでないのは、芸人と素人は違うという点。

芸人は、イジリを遊びと分かった上で上手く遊ぶ技術を持っているが、
素人は、遊びの技術も無い上にそれが遊びであるという事も理解できていない。

芸人同士のいじりは、目的が笑いであり報酬も発生するが、
素人同士のいじりは、目的が不明だし報酬も発生しない。



「笑われる者」を使って、
「笑わせる者」が遊んだりツッコんだりして、
「笑う者」が生まれる、


この笑いの三者関係は、ある程度自立した個人と個人でなければ享受し得ない。
お互いを信頼し、心を許し、心を通わせているからこそ、悪口ではなく笑いとなる。



「優越の笑い」とは、社会のデリケートな部分を刺激する危うい笑い。



😃不一致の笑い

18世紀以降、優越の笑いについて異論を唱える人が出てきた。


「機知による笑い」について

ジェイムス・ビーティは「不一致のうちに笑いを見出す。」と言う。
すなわち、笑いの原因とは「適合性と不適合性の対立」「関係と関係の欠如と対立」にある。
(例:モンスターズインクの凸凹コンビ。執拗な行為を繰り返す事によるゲシュタルト崩壊。語りが歌に変わりダンスに変わるミュージカル。など)


不一致の笑いを引き出すのは、『機知』の為せる技。
二つの観念を同時に考えて繋げる事が『機知』であり、なぞかけや例えツッコミがこれに該当する
(例:「朝焼け」とかけて「茹でられたロブスター」と解く=黒から赤へと変化する)


記号学」で考える不一致

『モノマネ』とは、誰もが知っているが誰もがハッキリとは気付いていない事を、「あだ名」として顔と声で表現する行為。
モノマネを記号学で捉えると、モノマネの対象がシニフィアンで、モノマネの内容がシニフィエ
コロッケやザコシショウのモノマネは、シニフィアンシニフィエが乖離し、過剰さに満ち溢れているせいでおかしさが増大する。


『シュール』とは、提示されたシニフィアンに対して、どんなシニフィエも適切に当てはめられないような状況を痙攣的に笑う事。
ジークムント・フロイトは、「機知の技法に短縮や合成がある。」と言う。(例:ナイツの漫才で「脚本力」と「脚力」と称する)


「フリ」と「オチ」

イマヌエル・カントは、「笑いとは、張りつめられた予期が、突如として無に変わる事から起こる情緒。」という。
つまり、常識という緊張感のある『フリ』が、他者の考えにより無に転じる解放感という『オチ』と出会うという事が、笑う者の中で起きている。


アンドレ・ブルトンは、理性の規制を取り外した時にあらわれる現実(超現実)のあり方を「シュールレアリスム」として示す。


ジークムント・フロイトは、
「理性が自我を抑制し、機知が自我を遊戯する。機知が生み出す無意味な言葉の戯れは、理性による抑圧を解放する。」という。


「笑いのレベル」と「笑いの缶詰」

笑いのレベルには2つある。

  • 知識のレベル:芸人が取り上げた言葉の意味が分かる事
  • 想像のレベル:芸人が発揮した機知の才が分かる事


笑う者自身がどちらのレベルに達してなくても、『笑いの缶詰』は笑いのタイミングを教えてくれる。
(例えば、出演者がワイプで笑っている姿や、スタッフ笑いや録音笑いによって、どこで笑うべきなのか明確になる)



😃ユーモアの笑い

「ユーモア」の語源

ユーモアの語源は、
古代西洋では「体液(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)」であり、
中世になると「気質(気分や機嫌にも近い)」となり、
17世紀のイギリス文学で「楽しさ」となり、この辺りから現代の意味合いになってきた。

狭義のユーモアとして、チャップリンは「人間の生存意識」「健全な精神」「均衡感覚」があると言う。


自分を見失わないための「ユーモア」

ヴォクトール・E・フランクルは、「ユーモアは、自分を見失わないための魂の武器であり、距離を取る武器である。」と言う。


古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、犬になるパフォーマンスを行った。
ノミスマ(慣習)の逆の事を行う事で、ノミスマに疑いを投げかけ、民衆はノミスマと自らの行いを天秤にかける。
ノミスマと自らの行いを天秤にかける事で、価値観が揺さぶられる。


ディオゲネスはパフォーマンスを通じて、民衆らがノミスマの奴隷になっていないかを諭した。


攻撃と哀愁の「ユーモア」

織田正吉は、イギリス流の「攻撃のユーモア」、日本流のユーモアを「哀愁のユーモア」と区別した。


「哀愁のユーモア」は弱さを容認する。
人間的な連帯と共感を引き出すありかたを「人間の性弱説」と呼び、「同情のユーモア」と形容する。


「攻撃のユーモア」は逆境や困難に対する反撃としてお笑いを使うが、
「哀愁のユーモア」は逆境や困難に対して向き合うのみ。


考えるきっかけを与える「ユーモア」

マーシャル・マクルーハンは、「ユーモリストは反社会・反環境のスタンスから、知覚を刺激する道具を私たちに受け渡す存在である。」という。
つまり、ユーモアを通じて我々に社会や環境について考えるきっかけを与えるものだと説く。


寛容度を測る「ユーモア」

フランスのアーティスト・ゼウスは、大手企業の広告看板を対象として、「ヴィジュアル誘拐」のような活動をしている。
(広告モデルの絵を切り取って身代金要求する。など)


日本のアーティスト集団・Chim↑Pomは、ゼウスの活動について以下のように述べる。

「人間の行動をすべて法律や倫理でぶった切るのではなく、なかばジョークによってお互いのユーモアや寛容度をテストし合う。
 そうやってジョークが通じる新しい社会を生み出していく。
 ガチにコミュニケーションを取ろうとするからこそユーモアが欠かせない。」


問題に向き合う距離と勇気を与える「ユーモア」

北海道浦河町に、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点である「浦河べてるの家」という社会福祉法人がある。


ここでは、「弱さの情報公開」をすることで、安心してサボれる職場環境を作っている。
自己の弱さを開示して外在化し、ユーモアに昇華させる事で、自分自身を見つめ直すきっかけとなる。
(例:何をやるにも3分しか集中力が持たないので、「ウルトラマン」というあだ名を付ける事で、その3分間に価値が出る。)
(例:幻聴が聞こえても、親しみを込めて「幻聴さん」と呼ぶ事で、「幻聴さん、今は疲れているから休ませてください。幻聴さんもお休みください。」と優しく接する事で、症状を和らげる。)


外在化は3ステップに分かれる。
この3ステップの基盤にユーモアがあり、ユーモアにより、問題に巻き込まれ過ぎないで、問題に向き合う距離と勇気を与える。

  • Step1: 自分の抱えた苦労を外に出す
  • Step2: 自分の抱えた苦労の外に出る
  • Step3: 自分の抱えた苦労を他のモノに置き換える



😃最後に

お笑い芸人やお笑い番組が好きなので、この本を手に取ったわけだけど、社会的な話がたくさんあってとても勉強になった。

お笑いの奥深さというか、難しいところというか、時代に合わせて変えていかないといけないというのは、至極理解できた。

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常にイライラしてるので、アプリ開発する事にしました。

常にイライラしている。

生きているとイライラする事が多い。

イライラの原因は様々あるが、仕事に関連する事が多い。


イライラに対する対策としては、以下が存在すると考えている。

  • イライラを変換する
  • イライラを抑制する
  • イライラを無視する


『イライラの変換』とは、すなわちエネルギーに変える事。
ただ、エネルギーに変えたとて、そのエネルギーの放出先が存在しないと、フラストレーションが溜まる一方になってしまう。
僕はエネルギーの放出先を持っていないので、放出先を持つ事が大人に近付く一歩なのかもしれない。


『イライラの抑制』とは、すなわち落ち着かせる事。
とあるビジネス書に「心や思考を整理するために愛読書の一冊でも持っとけ」と書かれていたが、まさにこれだと思う。
僕の場合は「リーダブルコード」と「アンチパターン~ソフトウェア危篤患者の救出~」の2冊を愛読書としたい。


『イライラの無視』とは、すなわち向き合わない事。
一番良いのは、やっぱり飲酒だろう。
飲酒してる時は嫌な事は忘れられるし、知らない間に寝てるし、気付いたら朝になっている。


アプリ開発してみたら心が安定した。

2022年に入って個人開発でアプリを作り始め、人生で初めてストアへのリリースもした。

平日夜間や土日祝において、何もやる事がなく、イライラを抱えながら酒をあおっていたが、アプリ開発し始めて酒の量も減ったし、イライラの解消スピードも早くなった。


なにも考えず、なにも作らず、なにも次に活きる事がない人生だったのに、
いかに考えて、いかに作って、いかに次に活かすかを考える事ができている。


少しばかり、社会に生かされている感覚から脱却できている気がする。


余談:MARVELのハルク

ちなみに、MARVELのブルース・バナーは「いつも怒ってる」と言っている。
いつも怒っているけど、気持ちを抑制してハルクを外に出さないようにしている。
いざハルクが外に出てしまったら、別人格のため、それを抑える事はできない。
気持ちが抑えきれなくなったら隠居生活・逃亡生活をする。


僕も常にイライラしている。
それを表出させないようにしているけど、いざタガが外れたら暴走してしまい、その果てには逃げてしまう。
ハルクはかなり近しい存在なんだと勝手に思っている。

自由と束縛の相反関係

制度における、自由と束縛

規制されると「もっと融通利かせてくれよ」と思うし、
緩和されると「そんな緩くて大丈夫なのか」と思うし、
人間とは面倒な生き物。


例えば、スポーツジムで、
「24時間365日いつでもOK」というジムだと、いつでも行けるからと結局通わなくなったり、
「平日の22時までです」というジムだと、もう少し融通利かせてくれよと文句を言いながら結局通えたり。


非常に難しい。


例えば、テレワークで、
「テレワークでも出社でも自由にどうぞ」と言われたら、出社日は会議に専念して、リモート日は作業に専念する・・・・・といった切替えができる人はいいけど、そうじゃない人も組織には一定数いるから、そうじゃない人の管理ができなくなるわけで。
「テレワークは月10回までOKです」と言われたら、裏を返せば、月20営業日のうち10営業日は出社しなきゃいけないわけで、10営業日も出社する必要があるのかと言われると、リモートで事足りてるから必要がないわけで。


非常に難しい。


緩和されているようで束縛度が高くなってたり、
規制されているようで自由度は高かったり、
非常に難しい。


思想における、自由と束縛

世の中には特定の人物や特定の物事に肩入れしている人がいる。


例えば、美容。
美しくなくても幸せだし、醜くても幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
美を求めるのは悪いではないが、美の反対=醜い事に対して悪態をついている姿といったら美しくも何ともない。


例えば、お金。
稼いでなくても幸せだし、持っていなくても幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
金を持っているのは悪い事ではないが、稼いでるとか稼いでないとか、持ってるとか持ってないとか、数字に囚われ過ぎていている。


例えば、ファッション。
ダサくても幸せだし、無頓着でも幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
服装なんて個人の領域だし、服装がお前に何の影響も与えてなどいないのに、やれダサいだの、やれブランドだの、自分の事は棚に上げて他人を査定する。


例えば、長渕剛とか矢沢永吉とか、浜崎あゆみとか倖田來未とか。
(完全に主観で申し訳ないが、)熱狂的なファンが多いイメージであり、彼ら彼女らの生き方をRespectしている印象が強い。



一神教というか、唯一神というか、そういった囚われた思想によって、視野が狭くなり、周りが見えていないように思える。



ただ、これが悪い事だとは思っていない。



逆の事を考えてみたい。


何に囚われる事もなく、自分の知識や経験だけを頼りに人生を歩んでいく。
とても自由に思えるが、良い事も悪い事も全て自分のせいになってしまうので、精神的ストレスが大きい。
故に脳内リソースの消費が激しく、身体的ストレスも加速していく。
「幸せとは何か」という哲学的な問いに対して、答えを見出せずに、ただひたずら堂々巡りし、自分で自分を束縛している事に等しい。


一方で、何かに肩入れした状態だと、他人の知識や経験を使いながら人生を歩んでいく。
良い事も悪い事も全て他人(しかも近くにいない人間)を巻き込む事ができてしまう。
これはむしろ脳内リソースを消費せず、ストレスから解放された人生を歩めるという点で重要な考えだといえる。


仕事における、自由と束縛

僕は常にイライラしながら仕事をしている。


イライラの種は組織的な側面が非常に強く、エンジニアリングをしている時はストレスから解放される。


人は僕に「妥協を覚えれば?」と言ってくるが、妥協とは一体なんなのだろう。
評価制度の上に成り立つ社会において、妥協を覚える事は果たして本当に正しい判断なのだろうか。
もちろん妥協する事もできるが、社会が僕を妥協させるなら、社会が僕を評価しないでほしい。



こういう感情と共に、間もなく「30歳」を迎えてしまう。
「30歳」という数字の魔力については以前のエントリーでも記載したが、この数字に囚われている自分がいる。



イライラの種から脱却する最大の方法として、組織に属さずにフリーランスで働く道を考え始めた。


もちろんフリーランスにはフリーランスの苦悩や葛藤があるだろうが、自分をその身に置いてみないと分からない事もある。
フリーランスは自由」というのは幻想だと思っていて、実際のところは制約条件が多過ぎて、むしろ束縛されているような感覚になるだろう。
会社勤めには、安定性や将来性という側面があり、これを棒に振るわけだ。



真面目に生きても馬鹿らしいから、自分勝手に生きていくのが一番ストレスフリーなんだと思うが、、
真面目な人間が自分勝手に生きていけるわけないとも思っている。


この感情のジレンマから抜け出すには、一体残りどれだけの時間を過ごさないといけないのだろうか。

文書作成に重要な「非言語化」と「チャンク化」

文書作成における嫌われる人種

仕事をしてると文書作成する事が多くある。
そして、文書作成には性格が表れる。


一番嫌いな人種は、文書作成の重要性を理解してない人間。
お前ひとりで仕事してるわけじゃないんだから、ちゃんと文書作成しろ。


次に嫌いな人種は、文章でしか表現できない人間。
非論理的であったり、支離滅裂であったり、ろくに文章も書けないくせに文章で表現しようとするヤツはマジで嫌い。
逆に、文章表現が豊か過ぎて文学的表現を使ってしまい、ビジネス文書として成立していないのも嫌い。


文書作成における重要な2要素

そんな僕だが、心がけている事は「非言語化」と「チャンク化」の2つ。

そもそも論「認知特性」

そもそも人間の理解力は「認知特性」と呼ばれ、大きく3つ、細かく6つに分類される。
(参考 : https://cogniscale.jp/characteristics/

  • 視覚優位者
    • (1)写真のように二次元で思考するタイプ
    • (2)空間や時間軸を使って三次元で考えるタイプ
  • 言語優位者
    • (3)文字や文章を映像化してから思考するタイプ
    • (4)文字や文章を図式化してから思考するタイプ
  • 聴覚優位者
    • (5)文字や文章を、耳から入れる音として情報処理するタイプ
    • (6)音色や音階といった、音楽的イメージを脳に入力するタイプ

言語化

「非言語化」については、視覚優位者に対するアプローチ。
文章ではなくて図表で表す事によって理解を深めてもらうために作成する。
(実際、文章表現よりも図表表現の方が伝わりやすく、共通理解や共通認識を得られる事の方が多い)

また、文章のみを用いて図形のような表現をする事もできる。
それが『インデント』。
プログラマなら分かるであろうが、インデントとは段落単位で文字位置を揃える手法の事。
つまり、「この段落は、この説明をしているんです」という事が明確になり、図形的に文書を理解する事ができる。

チャンク化

「チャンク化」については、言語優位者に対するアプローチ。
人間の短期記憶は「マジカルナンバー7±2」であり、7±2チャンク程度しか記憶できない。

ここで使えるツールは『箇条書き』。
人によってチャンクの作り方は異なるため、長ったらしい文章を書いていると理解度に差が出る可能性がある。
理解度に差が出る事を回避するために、箇条書きというツールを用いる。


ちなみに、1文あたり40~60文字が伝わりやすい文章であると言われているため、箇条書きで書けないようなケースでも、1文あたり40~60文字に収めるよう心がけるとよい。
(参考:https://data.wingarc.com/easy-reading-16542

そもそも「文書」とは

文書とは、ただの文章の集合体ではない。


段落や節や章立てによる構造体であり、目次によりインデックス化され、引用や出典により外部情報も参照でき、挿絵により説明を具体化する。


こういう構造体を理解しないまま、長ったらしくつらつらと文章を書き連ねているものを見ると、見るに堪えない。


・・・こういう事を理解していない人間に文書作成の重要性を説いても意味ないんだけどな。
マジで何なんだろう、あの人たち。

中途採用とサーフィン

風が吹いて、波が立つ

中途採用者には、新しい風を吹き込んでほしい」


これは、世間一般としてよく言われている事である。


中途採用により新しい風が吹き、
新しい風により新しい波が現れ、
新しい波を如何に乗りこなすか。


つまり、中途採用の本質はサーフィンをする事にある。


しかし、実際に新しい風を吹かせようとしても防波堤を立てられてしまう事の方が多い。


何故サーフィンをするのか?

では、何故サーフィンをする必要があるのか?


同じ組織に長く居座ると、それが全てであり正しいと思いがちである。
凪の状態が心地よくて、ぬるま湯の状態が心地いいのは分かる。


しかし、ビジネスはそんなに簡単なものではない。


常に新しい波が来る。
新しい波とは、「時代の波」だけでなく「新しい人材の波」によっても発生する。


しかもその波は激熱か激冷なので、如何に波に飲まれずに乗る事ができるかが大事になってくる。


自ら招いた波に防波堤を張る矛盾

「時代の波」とは違い、「新しい人材の波」は自ら招いた波である。


自ら招いた波に乗らないというのは、中途採用の目的が破綻していると言える。
ましてや、自ら波を招いたにも関わらず、その波が来ないように防波堤を張って阻止する。


こうなってくると、何故中途採用をしているのかが分からなくなる。


そもそもサーフボードなのか?

一方で、組織という生き物は、サーフボードよりも更に大きな船を操縦しているともいえる。
船には船長が必要で、船長が波を読まなければ転覆する。


デカ過ぎる企業は、デカ過ぎる船体を持っていて、多少の波にも動じないのは分かる。
だったら何故中途採用しているのかが分からない。
船員確保のためか?だとすると最初の世間一般として言われている事は何なのか?というか新卒でよくないか?


僕は波なのか?
僕は船員なのか?


僕は一体何のために生きているんだ?

神は本当に守ってくれるのか。

格言や教えとは、よくできている

最近読んでいる本に「耳は2つ、口は1つ」という言葉が出てきた。
調べてみるとユダヤ系の格言のようで、「自分で話すよりも2倍他人の話を聞きなさい」というコミュニケーション法の一つとして言い伝えられているらしい。
「口は閉じられるが、耳は閉じられない。だから人の話をよく聞け。」という意味もあるようだ。


格言とはよく出来ているし、至極納得できるモノであると思っている。


格言や教えとは、本当によくできている・・・?

しかし、それが上手くいかない時の解法が存在しないというバグがある。


自分は他人の話をよく聞いても、他人は自分の話を聞いてくれるとは限らない。
自分は口を閉ざしていても、他人は口を閉ざさないかもしれない。


自分は教えを守っているのに、他人は教えを守っていない。


キリスト教でも「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」という言葉がある。
教えを守って左の頬も差し出し、なぶり殺しにされている感覚であっても、さも平然と振る舞う事はできるだろうか。


神は僕を守ってくれているのか?

そういうストレスに日々葛藤して生きていき、フラストレーションを抱えながら生きていかなければならないのか?
その人生の選択は、本当に豊かなのか?


神は人間に試練を与えるともいうが、本当に全て越えられる試練なのか?
回避する事しかできない試練というのは、本当に試練と呼ぶのだろうか?
神は本当に僕を守ってくれているのか?
神は本当に存在しているのか?


神よりも凄い存在

こういう時に利いてくる名言が一つだけ存在する。
「他人と過去は変えられないが、自分と未来は変えられる。」


どんなストレスやフラストレーションを抱えようが、そんな過去の事は置いといて、未来に向けて進めばいい。
どんな粗悪な人間と対峙しようが、そんな他人の事は置いといて、自分がどうするかだけ考えればいい。


要するに、「よそはよそ、うちはうち」という事であり、
要するに、結局父さんと母さんが一番凄いのである。