頑張らないように頑張る。

努力と怠惰の狭間

性悪説は思考停止している

このブログを読んでる人は分かると思うが、僕は性善説の下で生きている。

そうしていると、たまにこのような事を言われる。

「現実は違う」「世の中は性悪説で出来てる」

現実は性悪説で出来ている


正直、そんな事は知っている。


僕も単純に脳内お花畑で、ジャンプの主人公みたいにバカ正直なわけではない。 世の中がクソな事は、小さい頃からテレビを見ていて知ってるし、大人になってからネットを見てても分かるし、日本だけじゃなくて世界的にもそうだという事は分かってる。


ただ、それを知った上で、性善説で語っている。

性悪説を好かない理由

性悪説は、弱い人間が弱い人間を作りあげる脆弱なシステムを構築する。
性悪説は、アイデンティティが欠落した、思考停止の象徴となる。
性悪説は、人々の不安を煽って嘲笑する愉快犯によるものである。


悪は甚大な力を持っており、その影響力と統率力は凄まじい。 悪は金銭価値が高いため、傲慢で短絡的な思考のエゴイストが、目先の利益のために悪魔に身を売る。 そして、悪に染まったエゴイストは、弱い人間を恐怖を持って悪用する。 そういった悪に対して、否定しないという意味で加担し、恐怖に足を竦ませ首を縦に振るだけの人形を作り上げる。

世の中は性善説から始まる

例えばFacebook。 実名登録や出身校登録などから、古い友人と繋がる事ができ、真正性の高さとオープンさから、企業サイトや就活にも活用される。

例えばYoutube。 無料で簡単に動画投稿や閲覧ができ、パートナープログラムにより収益化を図ることも出来る。

例えばメルカリ。 個人同士で物品の売買をする事ができ、コンビニとの連携により便利で手軽にサービスを受けられる。


これらすべて、世の中を楽しく便利にするために作られたサービスである。 つまり、理想郷として作られたサービスであり、性善説が先に来ている。


ただ、理想郷が出来ると人が集まり、人が集まると悪が生じる。

Facebookなら、個人情報の特定によるストーカー被害や、出会い系サイトとの連携など。
Youtubeなら、海賊版や掲載禁止の転載や、ポリシー違反動画、金銭目的の動画など。
メルカリなら、転売の温床や、現金が出品されたりなど。


そのため、悪を排除する方法が必要になってくる。

Facebookなら、連携サービスの制限やアカウント停止措置。
Youtubeなら、ポリシー違反動画の削除やアカウント停止措置。
メルカリなら、オペレーターによる出品情報の確認と削除。

性悪説論者の暴論

これに対して性悪説論者は、以下のような暴論を投げつける。

「悪質アプリと連携してしまう!悪質なユーザがいる!Facebookは邪悪!」
「ポリシー違反動画がある!金銭目的のユーザがいる!Youtubeは粗悪!」
「転売の温床になる!現金出品の危険性がある!メルカリは劣悪!」


本来の目的とは違う、ごくわずかな箇所にフォーカスし、ここぞとばかりに批判する。 そして人々の不安を煽り、満足感を得ている。

そんな暴論を許してよいのであろうか。

仮に、性悪説から始まったとする

今までの流れを逆に考えてみれば、性悪説から始まった事に出来るであろう。

悪質なユーザを排除するために、Facebookが作られた。
ポリシー違反動画を排除するために、Youtubeが作られた。
転売の温床を作らないために、メルカリが作られた。


考えれば分かると思うが、そんなはずがない。 それで考えるなら、インターネットを無くせば解決する。 もっと言ってしまえば、人間を撲滅すれば全て解決する。

ただ、「そうじゃないだろ」という事は、言わなくても読者は分かるだろうから言及はしない。

現実的に考えると、悪いのは「強い人間」

現実的に考えよう。


全ての人が強い人間ではない、弱い人間も存在する。 また、善良な人間もいれば、邪悪な人間もいる。

そして、邪悪な人間は弱い人間を悪用する。


これが現実。


では「弱い人間が強くなればいい」とすればよいか?

いや、そうではない。


理想で考えるなら、
強きが悪を倒し、弱きは強きの背中を見て善になる。

しかし現実は違い、
強きが悪を野放しにし、悪は弱きを悪用し、弱きは強きを信頼しなくなる。


これこそが、現実論で考える中での一番の問題である。

強い人間がいなくなったのか、
強い人間が弱くなったのか、
強い人間が利己的になったのか、真意までは分からない、、

論語読みの論語知らず

表面上の言葉だけは理解できても、それを実行に移せないことのたとえ。
論語読みの論語知らず - 故事ことわざ辞典


人それぞれ、自分自身のバイブルとなっている作品があるかと思う。
少年誌の『ジャンプ』『サンデー』
アメコミの『MARVEL』『DCコミック』
アニメ映画の『ディズニー』『ジブリ
他にも『連続ドラマ』『小説』『論語』『聖書』など...


この全てに共通しているのが、悪に立ち向かい、乗り越えていくという事だ。 悪とは、相手だけでなく、自分自身の中に存在する事もある。

これらは全てフィクションではあるが、その時代の社会問題を、誇張や抽象などして描かれている。 つまり、作者の思いのこもった人間味のある作品である。


なのに、世の中には性悪説が蔓延る。 それはつまり、人々が作品に感情移入できておらず、理解できていない証拠ではないだろうか。


作品に入り込み、理解し、実践する事こそが大事であると考える。

まとめ

性悪説」の本来の意味とは違う解釈で話を進めたのは申し訳ない。ただ、本来の意味に通じるつもりで書いたつもりである。

僕が性悪説をあまり口に出さないのは、「性悪な考え方も良いんだな」と思われたくないから。それを良しと思われてしまうと、小さな悪が生まれ、次第に蔓延していく。蔓延が進むと、それが一般となり、"悪"が当たり前の世界になってしまう。

それが嫌だから、頭の中で善悪を戦わせ、善が勝った状態で口から出す。頭の中で戦わせるには信念、すなわちバイブルが必要になり、バイブルを理解して実践する事が重要となる。

つまり、性善説を前提として、悪に立ち向かう力。
性悪説が蔓延したとしても、悪に打ち勝つ力。
これが大切になってくる。


冒頭に言った、
「現実は違う」「世の中は性悪説で出来てる」

だから何だというのか。

「未来と自分は変えられる」という言葉があるだろう。
現実は違くても、今から変えていけば未来は変えられる。
世の中が性悪説でも、自分がそうである必要はない。


性悪説は思考停止している。だから好かない。