置かれた場所で咲きたくない。
岡山に根を張り、綿毛をつけて飛ばしてくれた両親。
綿毛になって東京まで浮遊し、未だに地面に降り立つ事なく、上昇気流と下降気流に身を任せて空中浮遊を続けている。
他と変わらずアヒルとして育ててくれた両親。
そこから旅を続けるも、自分は醜いアヒルだと勘違いし、いつか白鳥になれるんじゃないかと水面を漂っている。
タンポポである事を忘れ、特別な場所で花を咲かせようとしている。
アヒルである事を忘れ、白鳥になれる可能性に胸をときめかせている。
タンポポである事。アヒルである事。
それ自体を理解しているのかもしれないが、心の奥底では、いつか突然変異でも起きないかと期待している。
そんな偶発的な事象は発生するはずもないのに。
そんなタンポポは、いつか大海原に帰着して、塩水により死んでいく。
そんなアヒルは、いつか酒に溺れて、フォアグラにもなりきれずに死んでいく。
「置かれた場所で咲きなさい」
本当にそれでいいんだろうか。
置かれた場所で咲く事が幸せなんだろうか。
そもそも「置かれた」という受動的であり能動的でない場所で咲いていいんだろうか。