頑張らないように頑張る。

努力と怠惰の狭間

自由と束縛の相反関係

制度における、自由と束縛

規制されると「もっと融通利かせてくれよ」と思うし、
緩和されると「そんな緩くて大丈夫なのか」と思うし、
人間とは面倒な生き物。


例えば、スポーツジムで、
「24時間365日いつでもOK」というジムだと、いつでも行けるからと結局通わなくなったり、
「平日の22時までです」というジムだと、もう少し融通利かせてくれよと文句を言いながら結局通えたり。


非常に難しい。


例えば、テレワークで、
「テレワークでも出社でも自由にどうぞ」と言われたら、出社日は会議に専念して、リモート日は作業に専念する・・・・・といった切替えができる人はいいけど、そうじゃない人も組織には一定数いるから、そうじゃない人の管理ができなくなるわけで。
「テレワークは月10回までOKです」と言われたら、裏を返せば、月20営業日のうち10営業日は出社しなきゃいけないわけで、10営業日も出社する必要があるのかと言われると、リモートで事足りてるから必要がないわけで。


非常に難しい。


緩和されているようで束縛度が高くなってたり、
規制されているようで自由度は高かったり、
非常に難しい。


思想における、自由と束縛

世の中には特定の人物や特定の物事に肩入れしている人がいる。


例えば、美容。
美しくなくても幸せだし、醜くても幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
美を求めるのは悪いではないが、美の反対=醜い事に対して悪態をついている姿といったら美しくも何ともない。


例えば、お金。
稼いでなくても幸せだし、持っていなくても幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
金を持っているのは悪い事ではないが、稼いでるとか稼いでないとか、持ってるとか持ってないとか、数字に囚われ過ぎていている。


例えば、ファッション。
ダサくても幸せだし、無頓着でも幸せなのに、そうではないと錯覚している人間。
服装なんて個人の領域だし、服装がお前に何の影響も与えてなどいないのに、やれダサいだの、やれブランドだの、自分の事は棚に上げて他人を査定する。


例えば、長渕剛とか矢沢永吉とか、浜崎あゆみとか倖田來未とか。
(完全に主観で申し訳ないが、)熱狂的なファンが多いイメージであり、彼ら彼女らの生き方をRespectしている印象が強い。



一神教というか、唯一神というか、そういった囚われた思想によって、視野が狭くなり、周りが見えていないように思える。



ただ、これが悪い事だとは思っていない。



逆の事を考えてみたい。


何に囚われる事もなく、自分の知識や経験だけを頼りに人生を歩んでいく。
とても自由に思えるが、良い事も悪い事も全て自分のせいになってしまうので、精神的ストレスが大きい。
故に脳内リソースの消費が激しく、身体的ストレスも加速していく。
「幸せとは何か」という哲学的な問いに対して、答えを見出せずに、ただひたずら堂々巡りし、自分で自分を束縛している事に等しい。


一方で、何かに肩入れした状態だと、他人の知識や経験を使いながら人生を歩んでいく。
良い事も悪い事も全て他人(しかも近くにいない人間)を巻き込む事ができてしまう。
これはむしろ脳内リソースを消費せず、ストレスから解放された人生を歩めるという点で重要な考えだといえる。


仕事における、自由と束縛

僕は常にイライラしながら仕事をしている。


イライラの種は組織的な側面が非常に強く、エンジニアリングをしている時はストレスから解放される。


人は僕に「妥協を覚えれば?」と言ってくるが、妥協とは一体なんなのだろう。
評価制度の上に成り立つ社会において、妥協を覚える事は果たして本当に正しい判断なのだろうか。
もちろん妥協する事もできるが、社会が僕を妥協させるなら、社会が僕を評価しないでほしい。



こういう感情と共に、間もなく「30歳」を迎えてしまう。
「30歳」という数字の魔力については以前のエントリーでも記載したが、この数字に囚われている自分がいる。



イライラの種から脱却する最大の方法として、組織に属さずにフリーランスで働く道を考え始めた。


もちろんフリーランスにはフリーランスの苦悩や葛藤があるだろうが、自分をその身に置いてみないと分からない事もある。
フリーランスは自由」というのは幻想だと思っていて、実際のところは制約条件が多過ぎて、むしろ束縛されているような感覚になるだろう。
会社勤めには、安定性や将来性という側面があり、これを棒に振るわけだ。



真面目に生きても馬鹿らしいから、自分勝手に生きていくのが一番ストレスフリーなんだと思うが、、
真面目な人間が自分勝手に生きていけるわけないとも思っている。


この感情のジレンマから抜け出すには、一体残りどれだけの時間を過ごさないといけないのだろうか。