頑張らないように頑張る。

努力と怠惰の狭間

「笑いの哲学」を読んだけどまとめてなかったのでまとめた。

以前「笑いの哲学」という本を読み、GoogleKeepにメモ書きだけしていたのだが、ちゃんとまとめてなかったので、内容をまとめておく。

なお、本書は、講談社より出版されている。

bookclub.kodansha.co.jp



😃本書に記載されている3つの笑い

本書では以下の章立てで笑いを分析している。
また、ざっくりいうと、それぞれ以下のような笑いであるといえる。

  • 優越の笑い
    • 「出来合いの枠」にスポッと嵌ってしまう事による笑い
  • 不一致の笑い
    • 二つの観念を同時に考えて繋げる「機知」による笑い
  • ユーモアの笑い
    • 健全な精神であり、自分を見失わないための武器であり、問題に向き合う距離と勇気を与える笑い(説明が難しい...)


以下、それぞれについて見ていく。



😃優越の笑い

人は人から笑われたくないと思っている。
その根底には、「不恰好なもの」という『出来合いの枠』に嵌められる事が恥ずかしいという気持ちがあるから。
(例:駅の階段でコケる事自体は恥ずかしくないが、「間抜けな人」という『出来合いの枠』に嵌められて視線を感じるのが恥ずかしい。)


『出来合いの枠』には、「ポジティブな枠」も「ネガティブな枠」も存在する。
ネガティブな枠としては、性別・人種・宗教など、ポリコレに反するモノが該当する。


「ポリコレ」や「エスニックジョーク」について

ホッブズは、「笑う者は小心であり、ポリコレに反している。」と言う。
アンリ・ベルクソンは、「笑う者は枠に対して笑っているだけであり、優れている。」と言う。
(「枠を笑う」という時点でポリコレに反しているという側面もあるが、ここでは言及しない。)


クリスティー・デイヴィスは、「『エスニックジョーク』における愚かさの対象は、支配的な中心文化圏に隣接した周縁地域に属するものが担う」と言う。
例えば、アメリカにおけるポーランド人、フランスにおけるベルギー人、東京都民における埼玉県民など、支配的地域の周辺地域にのみ『エスニックジョーク』は通じる。
なので、無関係な地域に向けられることはない。


「笑いの空間」と「差別の空間」について

ノエル・キャロルは、「ジョークは『笑いの空間』で展開されたものであり、『差別の空間』で展開されたものではない。」と言う。
つまりジョークとは、「架空のジャンル」を引き合いに出して、そのネタを『出来合いの枠』として楽しんでいるだけである。
(例えば、"ブロンド女性"という「架空のジャンル」を『出来合いの枠』にしているだけで、特定の人物を虐げているわけではない。)


ロナルド・デ・ソーサは、「ステレオタイプを批判する事は、再批判を誘発する。」と言う。
『笑いの空間』を引き合いに出すが、その一方で、『差別の空間』を生み出されてしまうという見解を示す。
(例えば、"ブロンド女性"という架空のジャンルは、性差別主義的な『差別の空間』も同時に生み出す。)


「マイクロアグレッション」について

デラルト・ウイング・スーは、「マイクロアグレッション(ほんの些細な攻撃性。自覚なき差別。)」の名付け親。
加害者側の「攻撃の意図」の是非よりも、被害者側の「行為の解釈」に重点が置かれる。
つまり、加害者側の意図なき発言が、被害者側にはステレオタイプに基づく発言だと誤解されかねないし、加害者には弁明の余地はない。


「被害者意識」と「認知の歪み」について

ブラッドリー・キャンベルジェイソン・マニングは、「マイクロアグレッションの背景には、被害者意識の文化がある。」と言う。
道徳文化として「名誉の文化」「威厳の文化」があるが、近年は「被害者意識の文化」がある。
「名誉の文化」は侮辱される者に厳しいが、「被害者意識の文化」は侮辱される者に優しい側面がある。
被害と特権は対立関係にあるが、「被害者意識の文化」における被害者は"安全な空間という特権を確保する"という認知の歪みを抱えている。


灘本昌久は、「差別の痛みから解放される方法は、差別を内面化してしまっている自分を認知する事。」と言う。
つまり、差別から目を背ける安全な空間に居続ける限り、「差別は存在する」という価値観が拭えなくなってくる。
自己評価を上げるためには、以下のステップを踏むとよい。

  1. ネガティブな要素をそのまま書き出す
  2. それを認知の歪みとして捉える
  3. その代わりにより客観的な考えに置き換える


「笑えない状況」を「笑われる状況」、更に「笑わせる状況」へ

「笑えない状況(例:階段でコケて間抜けな状況)」というのは、一歩間違えれば恐怖へと転じる。
「笑えない状況」を「笑われる状況」にする事で、恐怖から脱する事ができる。
「笑われる状況」を「笑わせる状況」にするため、あえてイジられたり自虐に走って遊ばれる事もある。



ここで勘違いすべきでないのは、芸人と素人は違うという点。

芸人は、イジリを遊びと分かった上で上手く遊ぶ技術を持っているが、
素人は、遊びの技術も無い上にそれが遊びであるという事も理解できていない。

芸人同士のいじりは、目的が笑いであり報酬も発生するが、
素人同士のいじりは、目的が不明だし報酬も発生しない。



「笑われる者」を使って、
「笑わせる者」が遊んだりツッコんだりして、
「笑う者」が生まれる、


この笑いの三者関係は、ある程度自立した個人と個人でなければ享受し得ない。
お互いを信頼し、心を許し、心を通わせているからこそ、悪口ではなく笑いとなる。



「優越の笑い」とは、社会のデリケートな部分を刺激する危うい笑い。



😃不一致の笑い

18世紀以降、優越の笑いについて異論を唱える人が出てきた。


「機知による笑い」について

ジェイムス・ビーティは「不一致のうちに笑いを見出す。」と言う。
すなわち、笑いの原因とは「適合性と不適合性の対立」「関係と関係の欠如と対立」にある。
(例:モンスターズインクの凸凹コンビ。執拗な行為を繰り返す事によるゲシュタルト崩壊。語りが歌に変わりダンスに変わるミュージカル。など)


不一致の笑いを引き出すのは、『機知』の為せる技。
二つの観念を同時に考えて繋げる事が『機知』であり、なぞかけや例えツッコミがこれに該当する
(例:「朝焼け」とかけて「茹でられたロブスター」と解く=黒から赤へと変化する)


記号学」で考える不一致

『モノマネ』とは、誰もが知っているが誰もがハッキリとは気付いていない事を、「あだ名」として顔と声で表現する行為。
モノマネを記号学で捉えると、モノマネの対象がシニフィアンで、モノマネの内容がシニフィエ
コロッケやザコシショウのモノマネは、シニフィアンシニフィエが乖離し、過剰さに満ち溢れているせいでおかしさが増大する。


『シュール』とは、提示されたシニフィアンに対して、どんなシニフィエも適切に当てはめられないような状況を痙攣的に笑う事。
ジークムント・フロイトは、「機知の技法に短縮や合成がある。」と言う。(例:ナイツの漫才で「脚本力」と「脚力」と称する)


「フリ」と「オチ」

イマヌエル・カントは、「笑いとは、張りつめられた予期が、突如として無に変わる事から起こる情緒。」という。
つまり、常識という緊張感のある『フリ』が、他者の考えにより無に転じる解放感という『オチ』と出会うという事が、笑う者の中で起きている。


アンドレ・ブルトンは、理性の規制を取り外した時にあらわれる現実(超現実)のあり方を「シュールレアリスム」として示す。


ジークムント・フロイトは、
「理性が自我を抑制し、機知が自我を遊戯する。機知が生み出す無意味な言葉の戯れは、理性による抑圧を解放する。」という。


「笑いのレベル」と「笑いの缶詰」

笑いのレベルには2つある。

  • 知識のレベル:芸人が取り上げた言葉の意味が分かる事
  • 想像のレベル:芸人が発揮した機知の才が分かる事


笑う者自身がどちらのレベルに達してなくても、『笑いの缶詰』は笑いのタイミングを教えてくれる。
(例えば、出演者がワイプで笑っている姿や、スタッフ笑いや録音笑いによって、どこで笑うべきなのか明確になる)



😃ユーモアの笑い

「ユーモア」の語源

ユーモアの語源は、
古代西洋では「体液(血液・粘液・黄胆汁・黒胆汁)」であり、
中世になると「気質(気分や機嫌にも近い)」となり、
17世紀のイギリス文学で「楽しさ」となり、この辺りから現代の意味合いになってきた。

狭義のユーモアとして、チャップリンは「人間の生存意識」「健全な精神」「均衡感覚」があると言う。


自分を見失わないための「ユーモア」

ヴォクトール・E・フランクルは、「ユーモアは、自分を見失わないための魂の武器であり、距離を取る武器である。」と言う。


古代ギリシャの哲学者ディオゲネスは、犬になるパフォーマンスを行った。
ノミスマ(慣習)の逆の事を行う事で、ノミスマに疑いを投げかけ、民衆はノミスマと自らの行いを天秤にかける。
ノミスマと自らの行いを天秤にかける事で、価値観が揺さぶられる。


ディオゲネスはパフォーマンスを通じて、民衆らがノミスマの奴隷になっていないかを諭した。


攻撃と哀愁の「ユーモア」

織田正吉は、イギリス流の「攻撃のユーモア」、日本流のユーモアを「哀愁のユーモア」と区別した。


「哀愁のユーモア」は弱さを容認する。
人間的な連帯と共感を引き出すありかたを「人間の性弱説」と呼び、「同情のユーモア」と形容する。


「攻撃のユーモア」は逆境や困難に対する反撃としてお笑いを使うが、
「哀愁のユーモア」は逆境や困難に対して向き合うのみ。


考えるきっかけを与える「ユーモア」

マーシャル・マクルーハンは、「ユーモリストは反社会・反環境のスタンスから、知覚を刺激する道具を私たちに受け渡す存在である。」という。
つまり、ユーモアを通じて我々に社会や環境について考えるきっかけを与えるものだと説く。


寛容度を測る「ユーモア」

フランスのアーティスト・ゼウスは、大手企業の広告看板を対象として、「ヴィジュアル誘拐」のような活動をしている。
(広告モデルの絵を切り取って身代金要求する。など)


日本のアーティスト集団・Chim↑Pomは、ゼウスの活動について以下のように述べる。

「人間の行動をすべて法律や倫理でぶった切るのではなく、なかばジョークによってお互いのユーモアや寛容度をテストし合う。
 そうやってジョークが通じる新しい社会を生み出していく。
 ガチにコミュニケーションを取ろうとするからこそユーモアが欠かせない。」


問題に向き合う距離と勇気を与える「ユーモア」

北海道浦河町に、精神障害等をかかえた当事者の地域活動拠点である「浦河べてるの家」という社会福祉法人がある。


ここでは、「弱さの情報公開」をすることで、安心してサボれる職場環境を作っている。
自己の弱さを開示して外在化し、ユーモアに昇華させる事で、自分自身を見つめ直すきっかけとなる。
(例:何をやるにも3分しか集中力が持たないので、「ウルトラマン」というあだ名を付ける事で、その3分間に価値が出る。)
(例:幻聴が聞こえても、親しみを込めて「幻聴さん」と呼ぶ事で、「幻聴さん、今は疲れているから休ませてください。幻聴さんもお休みください。」と優しく接する事で、症状を和らげる。)


外在化は3ステップに分かれる。
この3ステップの基盤にユーモアがあり、ユーモアにより、問題に巻き込まれ過ぎないで、問題に向き合う距離と勇気を与える。

  • Step1: 自分の抱えた苦労を外に出す
  • Step2: 自分の抱えた苦労の外に出る
  • Step3: 自分の抱えた苦労を他のモノに置き換える



😃最後に

お笑い芸人やお笑い番組が好きなので、この本を手に取ったわけだけど、社会的な話がたくさんあってとても勉強になった。

お笑いの奥深さというか、難しいところというか、時代に合わせて変えていかないといけないというのは、至極理解できた。

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