頑張らないように頑張る。

努力と怠惰の狭間

許容力の話

ついこの間、フォロワーさんと許容力の話になったので、
その時に頭の中に巡った話をさらっと。


話題としては、
・職場の人から「真面目にやろうとするからダメ」「良くしようとするからダメ」と言われる
・自分は真面目にしてるつもりも良くしようとしてるつもりはない
・適当に受け流せばいいとは思ってるけどそれができない
みたいな感じ。


こういうタイプの悩みは、許容力のある人にはよく見られる悩みに感じる。
僕の周りにもいるし、一番身近で言えば僕がそうである。

許容力とコップの話

許容力の話でよく出てくるのが、コップの例。
(以下は僕が適当に考えた例示)


自分が持ってるコップの容量は100cc。
他人から投げかけられた言葉が100cc。

コップから20ccだけ出して、相手から20ccだけ受け取るのもあり。

全く受け入れず、相手の言葉をそのまま吐き捨てるのもあり。

総とっかえで、コップから全部出して、相手の言葉を全部入れるのもあり。

特殊だけど、コップの中を煮詰めて濃くして、気化した事で空いたスペースに入れるのもあり。


もちろん、人によってコップの容量は違う。
100ccの人もいれば、50ccも200ccもいる。

人によって容量が違うのは、環境的要因や性格的要因など様々なものが孕んではいるが、
そのどれもが間違っているわけではないため、批判的になるのはお門違いであると言える。

許容力に大切な「取捨選択」「軸や基盤」「柔軟性」

言ってしまえば取捨選択
上記のような悩みを持ってる人は、取捨選択が下手といえる。

「コップの中も捨てたくないし、相手の言葉も捨てたくないし・・・」と立ち尽くしてる状態。

何を捨てて、何を取るべきか、きちんと考えられる事が大切。
(瞬時でなくてもいい。時間をかけても問題はない。)


あとは、「51ccは固定的に持っていて、49ccは流動的に変えられるようにしておく」
というように、自分の中に信念として固定的に持つ軸や基盤
また、状況に応じて流動的に対応できる柔軟性を持つことも必要となる。
(もちろん、人によっては50:50ではなく、30:70や80:20であっても良いと思う。)


つまり、「許容力があり、かつ、他人の言葉を受け流せない」という悩みの人は、
取捨選択が下手であり、軸や基盤がなく、柔軟性に欠ける」と言える。
(もちろん許容力があるのは素晴らしいし、現代人には少ない徳目なので誇るべきであるし否定するつもりもない。)

簡単な例:小学生時代の掃除の時間。

真面目に掃除をするAくんと、適当に掃除をするBくん。


 A「ちゃんと掃除しなきゃダメじゃん」
 B「昨日も掃除したし、目に見えて汚くないんだし、いいじゃん」


この時、

「いや、それでも掃除をしなければならない」
というのは、許容力がない。(ただし誠実であり正義があるように感じる)

「確かに、2日に1回でいいかもしれない」
というのは、許容力がある。(相手に譲歩できるのは見事なスキルである)

「じゃあ代わりに汚いところを掃除しよう」
というのは、応用力がある。(話は変わるが判断力があるので素晴らしい)

「だったら僕も掃除しない」
というのは、許容しているわけではなく放棄しているだけなので、良いとは言えない。


というように考える事が出来る。
最後以外はどれも素晴らしい事なので、あとは自分がどうありたいかだけである。

相手のコップを知る事も、また許容力

前述した通り、人によってコップの容量は違う=許容できる範囲や量が違う。

100ccしか持てない人に120ccの情報を渡しても、必ず20ccが溢れてしまう。
そういう時は小分けにして、30ccずつ渡すようにして、少しずつ受け入れてもらう。
受け入れる側も、少しずつ受け取って、一回一回きちんと昇華させていく。

これを、一方的に「120cc渡してんだから覚えろ」というのは、相手の事を考えれない自己中心的で傲慢な低能がやる事だ。
逆も然りで、「100ccしかねえのにそんなに言うなや」というのも、相手に歩み寄れておらず自己成長を妨げる原因となる。
(ここでいう「自己成長」とは、コップの容量を広げることである。)

お互いにお互いを知り、話し合い、擦り合せ、丁度いい按配でコップの中身をやりとりするのが大切。

討論や議論ではなく、対話をしよう

それぞれの違いについては、この辺りの記事が参考になる。

ameblo.jp

pineapple.blog

まず「討論」であるが、記事にもあるようにマウンティングである。
そこには許容力という言葉の欠片も見られず、むしろ信念を貫いた清々しい気概も感じられる。

次に「議論」であるが、何かしらの結論を出す事がゴールとなる。
自分や相手の意見を出し合って擦り合せ、集団として一つの結論を導き出す。
導き出した結論については、自分の意見が取り入れられる事があるものの、納得できない事も稀にある。

最後に「対話」であるが、結論を出さないのがルールである。
結論を出さないというのは、"集団としての結論"であり、"個人としての結論"とは異なる。
そのため、意見を出し合って擦り合わせても、自分の中で結論が導き出せれば、それが集団と合ってなくてもよい。
(もちろん、自分の中で結論が出なくても問題はない。)


つまり、「討論」は許容の欠片もなく、「議論」は疑念を孕んだ許容となる。
それに対して「対話」は、許容した上で自分の中でどう昇華するか考える事が出来る。

まとめ

許容するかしないかは、その人個人の問題だから気にしない。
許容する人を擁護するわけでも、許容しない人を卑下するわけでもない。

相手のコップの容量と用途を知り、
つまり、相手が許容する人なのかしない人なのかを見極め、
その上でこちら側がどういう対応をすべきか考える。

それと、自分のコップで他人を殴らないようにね。